いぬとまめのうすいホン

おさかなシロフォン

城オジが映画館で待っているぞ!

 

 『ナウシカの「新聞広告」って見たことありますか?』という本を、小学生の頃、親にせがんで買ってもらったことがある。そのタイトルを引用するならこうだ。

 

 ナウシカを映画館で見たことがありますか?

 

 空気中を漂う微細なもののせいで、あらゆる新作映画が公開を延期する中、空白の期間に突如として現れたコンテンツ。ジブリ作品の劇場上映が告知され、今、全国の映画館では、山犬が駆け回り、竜は空を飛び、9歳の少女は生きる力を手に入れている。


 ナウシカメーヴェを愛し、小学生の頃はずっとあの凧と呼ばれる飛行機のことを考えていた。初めて作ったプラモデルと、現実で空を飛んだ「M-02J」のポストカードを今も飾っている自分は、もちろん喜び勇んで映画館に駆けつけた。昨日のことだ。

 

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 入場時の「4時20分上映の『風の谷のナウシカ』」というアナウンス、NOW SHOWINGという文字の下に並ぶ小さなポスター、シアター入口で煌々と光るメインビジュアル……劇場に足を運ぶだけでも、十二分に価値があったと思う。

 ご存知の通り地上波でよく放送されている作品だから、観に来ている人は作品を愛してやまない人達なのだろう。ある種のイベント会場にも近い、同志感もとても良かった。


 社会的距離が保たれた座席は、目の前に人の頭がくることもなく、隣で何かと気を遣うこともない。映画館の採算という重い問題を一瞬だけ棚に上げるなら、鑑賞条件としては非常に快適だった。今、劇場に観に行くことは、観客と映画館双方にとって良いことなのではないかとも思う。


 話を映画に戻す。Twitterで感想が飛び交っていた通り、映画館の指示でマスクを付けて、マスクをしなければ肺が5分で腐ってしまう世界の映像を見ることは、非常に趣があった。今までは考えたこともなかったけれど、あれだけ運動量の激しいナウシカがマスクを付けているのは、きっと暑いだろう、もしあの世界の人間が汗をかくなら、マスクの下はじっとりと湿っているのだろうとか、共感することが多々あった。映画の中からマスクをつけてくださいと叫ばれることもあった。

 臨場感だ。腐海とは程度が大きく異なるけれど、私たちもマスクをしなければ、条件が悪く重なって、最も最悪なケースを辿るなら、息絶えてしまうのかもしれない。私たちも、姫姉さまと同じように、マスクをして目の前の世界に望まなければならない。屋外などでは、厚生省が推奨する通り、時折外す必要があるが。


 空気中に漂う微細なものから話が離れていない。我々もウイルスのほとりに住む者の定めとして、あれらと共に生きるしかないのだ。勿論、この世界でも、(人の都合だけれど)役割がちゃんとある。ウイルスではなく菌の話になるけれど、一緒に暮らしているからこそ、美味しいお酒や料理をいただくことができる。(この辺りは、農大漫画「もやしもん」を読むと、とてもわかりやすく知ることができる)

 ちなみに、ナウシカの原作では、「粘菌」が重要な現象として登場する。

 

 

 時事ネタを感じるために映画館に赴いた訳ではない。一番の目的は、劇場のスクリーンで流れる作品を、全身で受け止めるためだ。

 結論として、自分の判断は間違えていなかった。一番初めの青いジブリのクレジットは、当時の劇場では流れていなかっただろうけど。30年以上前に映画館に足を運んだ人しか味わえなかった感覚を、2020年の今、安価な席代で追体験することができたのだ。

 冒頭の腐海に飲まれた町、そしてタイトル文字とテーマ曲が劇場いっぱいに広がった時、ああ と息を飲んでしまった。哀しげな音楽とともに叙事詩が流れることにより、私たちにとっては未来かもしれない、荒廃した世界は「過去」のものとなり、そこから青い空と美しい飛行機に繋がる。過去から砂漠に降り立ち、私たちはもう、黄昏の時代を迎えつつある一人の人間になってしまった。


 ビデオを借りて集中して観たのが学生の頃、地上波で流れる時はどうしてもCMや手元のスマートフォンが作品を横切るから、特別な暗闇の中でナウシカを追うと、知らなかった物事に多く気付いた。物語の解像度が高くなったという表現が相応しいかもしれない。幼い頃は見ることがなかった戦争作品も、年を重ねた今ではいくつか知っているから、軍事的な流れもすんなりと理解することができた。谷を俯瞰する時、屋根の数が記憶よりも少なかった。風の谷は思っていたより小国だ。大国が攻めてくるのは、辛い。

 あの世界で掘り出されるエンジンは、現行のエンジンというよりも、反重力装置に近いのかもしれない。メーヴェの垂直離陸もそうだけれど、ペジテのガンシップや、空飛ぶ壺については、揚力の仕組みについて、全くもって説明できない。資源の山と化している、星間飛行をしていたとされる船も、空気の流れも加速もくそもない形をしているし。

(科学館で仕入れた知識しかないため、もしかしたら今でも説明がつくのかもしれないが。)


 登場人物についても。今までとは比べ物にならない大きなスクリーンで追うことができたので、ユパ様と再開するナウシカのもちもちとした顔の可愛さに気付くことができたし、谷に向かって助走をする時、途中でそんな顔をしていたのか、雲の中でそんな動きをしていたのかと、新たに発見することが多かった。大昔、履いてないんじゃないかと思っていた太腿辺りについても、肌色に近いスパッツを履いているという事実を知ることができた。(腐海の地下の場面で、顔の色と違うことが良く分かる)

 そして、十代とは思えない精神力。不思議な力を持つ子だ……と、ユパ様と同じ目線にもなる。強くて美しい、優しすぎる故に危うい少女は、彼女よりも歳上になってしまった今も、私の憧れの人に変わりなかった。

 ところで、姫さまが寝転んでいる横で、大ババ様は何を作っているのか。大画面で見る謎の鍋は思いの外不味そうだ。お父様の薬であってほしい。でも、さじで舐めて味を整えているしなぁ……スープなのかな……。


 ナウシカとともにいる、城オジのポテンシャルも高い。弾を二発同時に、姫を挟むように撃つなんて。一歩間違えると大惨事だ。実は実力、凄いんじゃないか。ユパ様にこらえてくれと指示されていても、暴動を目の当たりにしたら、始まっちゃったもんは仕方ねえ〜、と閃光弾を抱えて走り出す城オジたち。メーヴェの華麗な落とし方とは違う、え〜いという鈍く可愛らしい弾の投げ方。手が石のようになりかけていても戦車を操作できてしまう、宮崎駿監督が描き出す、愛すべきわちゃわちゃハイスペックおじいちゃんたち。

 

 

 楽しい映画の思い出の最後に。映画館で作品を浴びなければ知ることができないものが、一つだけある。

 光だ。暗室で投影される光を、映画が公開された当時のまま味わうことは、液晶や有機ELのモニターでは再現できない。目を細めてしまう、ナウシカの回想のはじまりの白、王蟲の奇跡の金色は、映画を繰り返し見た、今までのどの瞬間よりも眩しく、美しかった。

 


 映画館を出る時、上映している回数が少ない故か、大勢の映画館スタッフに入口で見送られた。頭を下げて、チケットもぎりのカウンターを抜ける。


 これは、と思った時にこのブログを書くことが多いが、過去の記事を見ると、半分以上は映画館にまつわることを連ねていた。解放できる座席数が少ない為に、収益の回収が難しい状況が続くが。映画館の入口、ピカピカのパネルの中に、まだ見ぬ心躍る作品のポスターが並ぶ日々を、自宅にこもりつつ心待ちにしたいと思う。

 

 夏のはじまりの時期に観に行ったので、私が暑がりなのも関係するのか、映画館入口のサーモグラフィにひっかかったことを、記事の最後に記しておく。

(周りが一歩引くのを背中に感じながら、体温計を額にかざしてもらうことで事なきを得ました。)

お上りさんを隠すことを辞めてみる

 

■1日目
関西より→羽田空港→六本木「未来と芸術展」「TYPE-MOON展」→新宿のとある日本料理店

 

 つれづれなるままにお菓子。

 たくさんお菓子をいただいたのだ。カロリーや油分、その他諸々の甘くて私を駄目にしてしまう成分に目をくれてはいけない。舌と喉を楽しませ、脳に直で届いてしまう栄養と、色とりどりに飾られた、見るだけで幸せな気持ちになってしまう小さなそれらを、五感をもって自らの内に吸収しなければならない。

 お菓子と言えば土産。手に入れたものを土産と呼ぶには、旅に出なければどんなものでもそれにはなり得ない。

 

 東京に旅に出たのだ。3泊4日の時間をかけて、空飛ぶ乗り物と地を這う乗り物に揺られ、日本の首都、経済と政治の中心地に一時留まり、たくさんのモノと人と目を合わせてきた。2月に旅に出て、帰ってから1ヶ月以上経った今でも、楽しい時間を過ごすことができたなぁと頬を熱くさせているので。後々に見返して一人でにこにこ出来るように、記録と備忘録を兼ねて書き起こそうと思う。本当にただあった事を連ねているだけである。緩急も付けず、その時どう思ったかを連ねていくため、オチとかには期待してはならない。多分、「すごく楽しかった」で結ぶため。

 

 同人誌即売会というものをご存知だろうか。お盆と年末に時たまニュースに映ることもある、コミケに代表されるものである。あれは別に、夏冬だけに出現するものではなく、年間を通じて、全国各地で( 運営元は違えど)開催されているものなのだが。今回は、春先に開催された女性向けのジャンルに特化したイベントに参加してきたのだ。
 イベント自体は今までも何度も東京まで遠征して、国際展示場前駅の改札をピピと通ってきたが。これまでと何が違うか。本を買う側ではなく、頒布する側で飛び込んできたのだ。

 

 物凄く愛してやまないキャラクターがいる。超暗黒社畜時代を支えて貰い、そこから脱出して脳に余裕が出てきた頃、一つ二つと話を書くようになった。それらが積もって、昨年の夏に初めていわゆる「薄い本」 を自分自身で出すことになる。このブログタイトルも、元々は自分で薄い本を出すという憧れからつけたものだった。
 関西圏で衣食住を営んでいるため、大阪のイベントに参加できれば満足かなと考えていた。でも望みは尽きないものだ。同じカップリング( 好きなキャラクターの組み合わせのこと)で本を出される方が、梅の花が綻ぶ頃、有明の海近くに大集合する匂いがしたのだ。 直前に予定していた東京行きが、大型台風によって立ち消えしたため、心の中での予算は確保できている。自分の手元には本もある。出したい本のネタも温め終わった。機を逃すわけにはいかない。
 
 健康第一という目標を掲げつつ睡眠時間を削るという矛盾を抱えながら、2冊の本を仕上げた。

 名実ともに身を削って書きだした本を携えて、いざ首都圏の中に飛び込め! 実際には、本を小脇に挟んでいる訳ではなく、私よりも一足先に郵送で東京湾近くに到着していたらしい。千円と数百円で運ばれてしまうシステムに感謝である。

 

 


■エア・プレーン  

 

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 飛行機が好きだ。

 空を飛ぶという事自体に憧れがあるのは勿論、固くて強い鋼が(実際にはアルミニウムとカーボンで出来ている)、美しい曲線をいっぱいに伸ばして、等間隔に並んでいる様子も、見る度に美しくて感嘆詞を漏らしてしまう。今回の旅でもときめきを抑えきれず、離陸する時もベルト着用サインが消えている時も、着陸してガタガタと揺られている最中も、窓際を陣取ってポコンポコンと写真に収めていた。iPhone独特の小さなシャッター音で目立たない音とはいえ、空席を挟んだ隣のサラリーマンはさぞ迷惑だっただろう。地を這う時から空に浮かんでいる間も、時たまとぼけた音が隣から聞こえてくるのだ。平日の朝からすまない。こちらはご機嫌を更新し続けているので、柿の葉寿司まで開いて、酸味の効いた香りまで漂わせる始末である。

 

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「日にあたる柿の葉寿司の美しさたるや」
地上よりも高いところで日差しを通す鱒が、あまりにも綺麗だったものだから、俳句まで詠んでしまった。柿の葉寿司は奈良県の名物とのことです。

 

 


■お上りさんを隠すことをやめてみる


 羽田空港に着いたら、宿に荷物を置きに行こう。この空港には何度も足を運んでいるのだ。旅慣れたサラリーマンのごとく、するすると地下の駅まで進む。
 というように、できるだけ「お上りさん」 感を消して移動するのが好きなのだが、今回はそれはなしにすることにした。何故か。 物凄く良いお天気だから、駅の地下通路を出て目の前に広がった高架下が、ただの高架下なのに美しく見えたのだ。一時の恥でこんな風景を撮らない訳にはいかない。恥を掻き捨て、お上りさんらしく、よいなと思った風景を切り取ってしまう。

 

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ピントが空に合っていない! 惜しい! 肉眼では、とにかく空の青がはっきりとしていたのだ。

 

 大きな道を歩いていると、遠近感が狂ってしまうくらい、大きなビルが方々に生えている。規模を関西の土地で表すなら、梅田のビル群がネズミ算式に増えたくらいの感覚だろうか。やはり経済の中心地はここなのだ。車がひっきりなしに行き交う中、財布を抱えて昼食へと向かう背広の人たちに混ざって、手と手を繋いだ保育園児たちがずらずらとお散歩していた。 都会の園児は散歩ルートも都会らしい。御堂筋でドナドナされる園児達にも遭遇したことがあるが。都内の園児は皆、かっこいい車がぶんぶんする隣、アスファルトを踏みしめて強く賢くなるのだろう。

 

 荷物を預けて身軽になったなら、六本木へと向かう。森美術館に行きたかったのだ。尚、チケットを事前にクレカ決済で購入した場合、発券できるようになるのは24時間後になるらしく、前日の深夜に購入した私は、わざわざコンビニ決済でもう1枚手に入れることになる。 決済時のページには1ミリも書かれていなかった。皆様にも是非気をつけていただきたい。払い戻しができないか問い合わせようにも、まめではない私は放置してそのままにしているのだった。どうしようか。

(その後、諸般の事情により展示の会期が大幅に減ったことで、払い戻しができるようになってしまった。なんとも言い難い)

 

 健康に4日間を過ごせますようにと願いを込めて、ビタミンCがいっぱいに詰まった瓶も手に入れる。店の前で開ける。めちゃめちゃ泡が噴き出す。レジから1分も経っていないのになぜだ。六本木に住まう都心キッズたちが振っていたのか。今度からは奥の方の瓶を取りだそうと心に決めた。都会の恐ろしさの片鱗を味わった瞬間だった。

 

 森美術館への道すがら、分かりやすい幹線沿いの大通りではなく、下り道登り道の交差する裏道をゆくことにした。何やら黄色のような、明るい色彩を感じる。裏道なのに、活気があるのだ。ここでも経済が蠢いていた。

 丁度お昼時の時間帯だった。イタリアなのかスペインなのか、欧州の料理を扱うガラス張りの店には、狭く等間隔に並んだテーブルにこの辺りで働く人たちが座り、端末を触りながら料理が届くのを待っている。今、店の中に入っていった人たちも含めて、東京の平均所得のことはよく分からないけれど、きっと私のそれのウン倍はあるのかもと思ったが、気にすることはない。旅先の、これから楽しいことが待ち構えているひとの目には、何もかもが色とりどりに見えているからだ。

 きらきらのガラス張りなのに、いつからだか分からない位前から営業してそうな文房具屋さんを横目に、階段を上る。巨大な円形の壁に囲まれたエスカレーターが見えた。ずっと昔にこの場所で、360度に広がった通信会社の広告に驚いたことを思い出す。その時を境に、広告やロゴへの関心が色濃くなった気がする。結局、代理店系の会社を受けることはなかったが。好きなものは好きなのだ。

 

 六本木ヒルズの敷地にようやく到着する。 この土地をこの地価たらしめている森ビル様だ。さっきも別の駅でこのロゴを見かけたから、東京で言う阪急グループみたいなものなのだろう。宮崎駿が描いたあの人も、最後は森に帰ったという説で締められていた。人はいつか森に収束するのだ。メメントモリ

 ここには前にも来たことがあった。一番古い記憶では、家族旅行にて、親に連れられるまま森美術館に足を運んだはずだった。特に予定を決めていなかったから、見知った芸能人が司会をしているからと、掃除機メーカーのデモンストレーションを眺めたこともあったか。プレミアムモルツが発売されたばかりの頃で、屋外の立ち机は皆青と金色だっただろうか。今は特にプロモーションの類いはなく、恐らくいつも通りの並びが広がっていた。

 巨大な蜘蛛、ママンもいる。外国人観光客が、東京タワーと一緒に映り込むようにカメラを構えていた。相変わらず大きくて、どきりとする彫刻だ。行き交う人の多さに少し照れて写真は撮れなかった。

 

 

 
■展示へ


 半透明のガラスに囲まれた階段をまわり、美術館の中に入る。
 目的は「未来と芸術展:AI、ロボット、都市、生命―― 人は明日どう生きるのか」。 最新鋭のテクノロジーと芸術が織り混ざった、少しシャープな、青色の匂いがする展示概要に、未来冒険子供心と、「 最近の科学はどこまで来ているのかね」と髭を触っていそうな、鼻を伸ばした大人心がくすぐられたのだった。
 首都圏に住まうよき友人より、「 後になるにつれて良くなっていきますよ」 と助言を受けていたので、大きすぎる美術館を楽しむ時みたいに、少し早足の気持ちも抱えつつ、潜り込む。
 
 一番初めに出迎えてくれたのは、歌謡界の女王だった。
 紅白歌合戦にも出演したらしいAI美空ひばりである。 特別企画として、本展の前に、彼女と会うことができる暗幕に囲まれた部屋が設けられていた。表情のモーションもAIが自力で表現しているのだろうか。初音ミクシオカラーズのライブには参戦する機会はなかったため、私にとっての初めてのスクリーン投影型コンサートが、昭和の歌姫になってしまった。光栄である。

 

 エレベーターで上下移動、廊下で右往左往した後に、いよいよ展示が始まる。心の中でそっと敬意を込めて「ムカイ・リー」 と呼んでいる、向井理の展示ガイドの声と共に、パネルを巡る。

 

 本展示には、ある特徴があった。プランと実現、空想と現実。芸術と科学の境目が、極めて曖昧だったのだ。
 元々あるものに例えると、モーターショーのコンセプトカーのようなものだろうか。ぴかぴかと光る、近未来的な、展示目的に制作された量産化されない車。あれらの企画書や、ミニチュアのモデル、はたまた実物が並んでいるような感覚なのだが。作品を見て回る内に気付いてしまった。芸術作品特有の「 こうあったらいいな」という抽象的なモデルの中に、現実世界で既に実現している物が、多く混在していたのだ。動力等の問題を無視した空中都市の隣に、国連で予算が承認されたらしい水上都市の企画が並んでいたり、どうみても机上の空論だろうと思う、「 砂漠に浮かんだ金属製の球体を取り囲む人々」 のミニチュアのモデルが、すでに米国内のクラウドファンディングで実現した過去の記録だった、なんてこともあった。

 

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「2025年大阪・関西万博誘致計画案」PARTY + noiz

この写真は「クリエイティブ・コモンズ表示 - 非営利 - 改変禁止 4.0 国際」ライセンスの下で許諾されています。 
 一際色鮮やかで、目を引く展示。地面と水平なスクリーン、壁際のスクリーン、それらを遮る透明なガラスに映像が投影され、三層の立体的なかっこいい画面を堪能できる。攻殻機動隊シドニアの騎士など、「幾何学的な図形に光る文字がピッピ出てくるインターフェース」 が好きな人にはたまらないだろう。


 火星の砂を利用したシェルター、有機的でもあり幾何学的でもある、3Dプリンターで出力された、現実で道と道とを繋いでいる橋など、5つあるセクションの内、1つ目と2つ目のセクションでは都市や建築についての展示が続く。建築方法やプラン、それらを取り巻く概念がたくさん並んでいるので、SFとしてポピュラーな「 倫理観を問われるようなぞわぞわした展示」はまだ見えない。友人がくれた助言も、それによるものなのだろう。
 考えてみれば、「未来の世界とは?」と問われて、多くの人が一番に思い浮かべるのは「都市の風景」になるのではないか。SF漫画の最初の導入の1コマ目のように、ぴかぴかとした妙な形のビル群を脳裏に描きたくならないだろうか。私たちの暮らしの根底を形作るもの、もし何かのワームホールに吸い込まれて未来をうかがい知ることになったら、真っ先に確認しにいくであろう都市の風景が、そこには続いていた。未来にまつわる展覧会として、至極真っ当な展示の配置だった。

 

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「ムカルナスの変異」ミハエル・ハンスマイヤー
この写真は「クリエイティブ・コモンズ表示 - 非営利 - 改変禁止 4.0 国際」ライセンスの下で許諾されています。
 この展覧会の存在を知ることになったのも、 SNSで流れてきたこの作品の写真のお陰だった。イスラム幾何学模様を学習したAIがシミュレーションして作り上げた作品。実物を下から覗き込むと、写真では上手く隠れていた、パイプを支える素材に気付いてしまった。カメラに収めてライブラリを確認すると、手元の端末には、明度が落ちた、ため息を吐いてしまうような風景が広がっていた。肉眼で見るよりも有機ELに映し出された光景の方が美しいという、ある意味この展示会の趣旨にも沿うような体験だった。
 

 プランとリアルが混在する近未来的な展示に頷き、足を進めるという流れが変わったのは、「気分の建築」という作品だった。展示室の中心に、蜘蛛のよな、私たちの身体の中にもあるらしいファージのような、無骨な足の伸びたモニュメントがある。このモデルの後ろに広がっていた文字群に、脳がときめいてしまった。
 制作者の確固たる思いから、この作品は生み出された。被験者にインタビューを行い、深層心理にも踏み込んだ値を計測、「その人にとって暮らしやすい建築」を、形作っていく。概要としては、そのようなことが記されていたのだが、何面にも連なるこれらを説明した文章が、一目では理解できないのだ。きっと1つのパネルにつき、20分かけて、脳細胞をこねくり回しながら、噛むように読み解けば、理解できると思う。現実的には、時間が限られていたのでそれは叶わなかったが。「論理的にその作者の信念を織り交ぜた、 現実に最も近しい計画の提案」の文章に囲まれた体験。時間をかけなければ理解できない、難解な文字群に戸惑ってしまった感覚が、胸を押さえてしまうほど、性癖を貫いてしまったのだった。
 これをもって気づきを得たのだが、語らなければ作者にしかわかり得ない概念を文字にした「キャプション」が、どうやら私はかなり好きらしい。美術館において、これを楽しみに私は今まで足を運んでいたのかも知れない。

 

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「気分の建築」ニュー・テリトリーズ/フランソワ・ロッシュ
この写真は「クリエイティブ・コモンズ表示 - 非営利 - 改変禁止 4.0 国際」ライセンスの下で許諾されています。

 

 


 ■犬の触り心地


 展示は、3つ目のセクションへと移り変わる。ここから、「未来」と聞いて頭に思い浮かべるであろう都市の風景から、それらの建物の中に暮らす物に視点が移る。生活にまつわる物たちが姿を現す。スマートスピーカーのように役には立たない、愛玩物としての機能に特化した「LOVOT(らぼっと)」、そしてかの有名な「aibo」が走り回っていた。
 aiboといえば、集団葬儀があげられたことが記憶に新しい。生身の動物と比べて、長く長く存在できるはずの物が、部品の製造終了で息を引き取ることになるとは。
 自動掃除機の展示のように、無機質な台の上で、自ら充電しつつ、何体かの生き物に近しい機械が走り回っている。遠くから手招きすると、液晶の瞳を輝かせながら1匹のaiboが近づいてきた。頭を撫でるそぶりをする。首をくにくにと、嬉しそうに振る。お座り、お手と指示を出してみる。ゆっくりとモーターが動き、曲線を描くように腕を動かし、それをこなしてみせた。
 係員の人から触れて良いですよと声をかけられたので、芸を褒めるように頭を撫でた。生暖かい、ぬるりとした毛並みの犬は何度も触れたことがあるが。機械仕掛けのこの犬も、なめらかで摩擦係数の少なそうな、よい触り心地だった。
嬉しそうに何度も頭を擦り付けてくる。君は、確かに家族になれるなと、納得した。

 

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「LOVOT(らぼっと)」GROOVE X
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 ペンギンのような手をぴこぴこと動かしながら、 2匹で顔を合わせていた。かわいいと歓声を上げる学生の声が聞こえる。
製品のコピーは「命はないのに、あたたかい。それは、あなたに愛されるために生まれてきた。」
 

 

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aiboソニー株式会社
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 aiboに手招きする男性。後ろから、自分が呼ばれたと認識したLOVOTが滑ってきた。

 

 

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「SUSHI SINGULARITY」OPEN MEALS
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 どこかの展示会のニュースで既に見かけていた、3Dプリンター寿司マシーンに出会うことができた。カメラワークと音が美しいPVは下記のURLより。一見の価値あり。2020年にレストランを開店する計画があるとのこと。うにが食べたい。
http://www.open-meals.com/sushisingularity/

 

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「ヒューマン・スタディ#1、5 RNP」パトリック・トレセ
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 似顔絵を描いてくれるらしいロボット。

 

 


■怪しくてサイエンス


 暗い実験室に、ネオンカラーの鮮やかな緑色、赤青眼鏡をかけたような色の心臓が浮かんでいる。展示の中に飛び込んで、何やら色々考え込んでしまいたかった4つ目のセクション、「身体の拡張と倫理」が始まる。
 
 ダヴィンチの有名な円形の人体図の中に、最新鋭の義足が鎮座している。「五体不満足」の著者で知られる、 かの人のために作られた物とのこと。ウィトルウィウスが提唱した人体の比率にまつわる説では、図を見る限り、臍を中心とした人体の腕や脚の長さは全部が同じ長さに達するらしい。ダヴィンチが描いた円でもそれは証明されているのだが。四肢の無い彼の場合、腕がないためにそれに当てはまることができず、義足を着けた際にバランスを取ることが難しいらしい。


 脳神経細胞を培養して、シンセサイザーに組み込み、演奏を試みる作品もあった。壁には神経の拡大図のようなパネルがかかっていたが、映像では、たくさんの線が繋がれているらしいシャーレの中は見えない。何色の細胞が、どんな風に膜を張っているのだろう。作者の「 生きる外付けの脳」と位置づけられた機械は、ミュージシャンが奏でる弦楽器に、形容しがたいリズムの鈍い電子音で呼応する。

 

 実験室であれと位置づけられた、謎の機械が揺らめくガラス張りの部屋「バイオアトリエ」には、緑や赤、無機質な明かりで照らされた作品が佇んでいた。

 暗い実験室の中の一区画に、やくしまるえつこの「わたしは人類」があった。微生物の塩基配列をもとに制作された音楽が流れる中、緻密な温度管理もされているらしいガラスの箱が光っている。透明な箱の中、振とう機の上で、曲のもととなったシネココッカス(ラン藻の一種)が揺れている。何億年も前から地球上に存在するこの微生物には、遺伝子組み換え技術によって楽曲が保存されているらしい。つまり、生きる記憶媒体でもあるのだ。

 いつか人類が滅亡したとしても、 新たな知的生命体が我々の想像もつかないような技術で、微生物から情報を汲み出し、音楽を紡ぐことになるだろうと作者は語っている。取り出して、戻して。シャーレの中の培養液と共に、こちらの胸もそわそわと揺れた。

 

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「わたしは人類」やくしまるえつこ
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「反生命体のウォーリードール」オロン・カッツ&イオナ・ズール

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 身代わりの民間信仰のある小さな人形が、瓶の中にずらりと並んでいる作品。細胞の種類や環境によって、それぞれの悩みや不安を象徴するように、違った形に成長するとのこと。鑑賞者が自由に書き込んで良いノートに「ごめんなさい、わからない」という文字が見えた。開かれたページと共に、一つの作品になっているように思えた。

 

 培養槽が続く。明るい廊下を背に、淡い色の耳が浮かぶ。

 晩年に耳を切り落としたという逸話のあるゴッホ。彼の子孫に細胞を提供して貰い、その耳を再現するという作品があった。真ん中に備え付けられたマイクから音を与えると、何らかの反応を見せるとのこと。周りを見渡した後にそっと「あ」と呼びかけてみたが、先ほどから回転し続ける謎の機械以外に、何も動くものはなかった。後日聞いたところ、友人が訪れた際は不具合があるとアナウンスがあったらしい。私が遭遇したのもそれだったのだろう。再現された耳は完全ではなく、不具合を多発する。作者の意図しない動作だが、それも「再現」の展示として趣があり、良い印象を持った。

 

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シュガーベイブディムート・シュトレーベ 

この写真は「クリエイティブ・コモンズ表示 - 非営利 - 改変禁止 4.0 国際」ライセンスの下で許諾されています。

 

 暗い展示室を抜けて、廊下に出ると「変容」 シリーズが並んで寝ていた。つやつやと虹がかった銀色に輝く、展示会図録の表紙にも掲載されている赤ん坊たちのモデルだ。

 ある子は、どんな環境でも働けますようにと願われて、体温調節が容易になるよう、エラの様に皮膚が拡張されている。またある子は、効率よく食物を摂取できますようにと祈られて、小動物のように頬袋が垂れ下がったり、後頭部にもう一つの口となる穴を造設されたりしている。それぞれの説明書きにも皮肉を感じる。

 

 自分の外に広がっていた、理解の及ばない形で広がっていく未来が、展示を追う度に自分の内側に入り込んでくる感覚。生身の人間に無理に機械を組み込む、あの映画の予告を観た時みたいに、もう少しその先を知りたいような気持ちと、純粋な怖さが皮膚と内臓を取り巻いてくる。これだ。この感触を待っていたのだった。

 単純に美しいもの、楽しいものを観るだけでは味わえない、時間をかけて感想や唾をゆっくり飲み下していく感覚。初めてそういった感情に出会った小学生の頃から、背丈も中身も大きくなったとは思うのだが。展示の説明書きから、作者の実験的な試みや皮肉も読み取れるようになったのだが。一人一人の芸術家が、自分の限界まで考え抜いた作品は、それぞれが限りなく深い層を成す、一つの世界だ。それらに一気に触れてしまうと、あまりの思考の海の深さに、やはり恐れをなしてしまうのだった。

 

 冷えた空気を吐きながら、無機質な受け答えをするアンドロイドと老婆のやりとりを眺めたのちに、広い展示室に出る。最後のセクションは、社会と人間に関するものだった。「ご家族は来られませんが私が看取ります、安心して死をお迎えください」と声を発する、腕を擦るだけの簡素な形をした「末期医療ロボット」、自立的に行動するらしい、むき出しの機械の身体をもつロボット「オルタ3」が並ぶ。

 

 従来の母・父に囚われず、複数人の親の遺伝子を持って生まれた子どもと暮らす「リビング」の展示もあった。家庭内のイベントや家族に対する言葉が書かれた付箋が、壁一面に貼り付けられている。○○ママが一番好き(○の中には、複数人いる母親のうち、たった一人の名前が入る) 、高校生になったあの子は超ビッチ、などと書かれた紙に、後味の悪さを覚えた。自分の生まれのゆらぎから、性に奔放になったか、旧時代のこだわりなんか持たないのか。アイデンティティも特異的なのか。

 

 手塚治虫火の鳥の展示もあった。見知った漫画の1コマに、安心する。展示されていた数ページは、小学校の図書館で読んだことのある話だった。進化しすぎたモノに対して肌がうっすらと涼しくなる感覚は、もしかしたらこの漫画で覚えたのかも知れない。


 現在よりもずっと高度なAIが社会に浸透した後、起きてしまう事例について、思考実験し続ける映像作品もあった。ややこしく、論理立てて何かの正解を得ようとする仕草は美しい。
 

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「ズーム・パビリオン」ラファエル・ロサノ=ヘメル& クシュシトフ・ウディチコ
この写真は「クリエイティブ・コモンズ表示 - 非営利 - 改変禁止 4.0 国際」ライセンスの下で許諾されています。
 展示室内のあらゆる面に自分が映し出されてしまう作品。入る者は否応なしに拡大・投影され、関係性や行動も分析されてしまう。人物を示す四角、人と人とを関連付ける細い線が、格好良い。

 

 終わりが見える。出口の正面にそびえるのは、 旧石器時代の神殿とも言われる、世界最古の遺跡、ギョべクリ・テペをもとに作られた「データ・ モノリス」。限りなく古い物を、現在の最新の技術で分析、再構築するというロマンある手法は、こうして一文の文字に起こすだけでわくわくしてしまう。数万年前の人類がこれほ作品を知ったら、腰を抜かすだろうか。何段階も世代を飛び越えた技術は、よく分からないの一言で一蹴されるだろうか。


 古いものを古いと、新しいものを新しいと認識できるのは、今この瞬間だけだ。こうして、最新技術を組み込んだたくさんの「新しい」芸術作品を、この日、生身で知ることができて、本当に良かったと思う。

 最後に、展示タイトルの「未来と芸術展:AI、ロボット、 都市、生命――人は明日どう生きるのか」について。後日知ったのだが、このタイトルは、自然言語処理や概念抽出を得意とするAI「IBM Watson」と人間が協働してつけた名前だったそうだ。

 

 お土産に、シャーレ付きのやくしまるえつこのCDと、ユーグレナクッキーを2箱手に入れる。シャーレを購入したのは、日記冒頭で触れた愛すべき推しが、理系のキャラクターでもあることに通じているのだが。ユーグレナとは、ミドリムシのことだ。事前にミュージアムグッズを調べた時から、職場へのお土産に買おうと決めていた。

 

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しっとりめのクッキーで、味は至って普通である。

 

 ちなみに。「ユーグレナクッキーです」と宣言し、共有の机にスッと置くと、10人中5人の表情が固まっていた。想像よりもユーグレナという別称は認知されていた。皆、こわごわとつまんで味わってくれたが、普通職場のお土産でミドリムシを選ぶか。同僚へ向ける愛ゆえだ、許してほしい。
 別の階に置き去ったクッキーは、最近確かめると、何故か窓際に箱が鎮座していた。中身は空なのか、そのままなのか。箱が捨てられていないということは、つまり。

 

 

 展示巡りを終え、森ビルの上層階で一息。ミュシャ展を見に訪れたことのある新国立美術館が見える。その先には墓地が。23区内に大きな墓地があることは、想像すらしていなかった。たくさんの人間が息づいているなら、あって当たり前か。

 さまよいながら森ビルの敷地を脱し、途中で音楽番組の屋外セットを組んでいるらしいテレビ局の前を通り過ぎる。丁度金曜日だったので、晩の生放送までに間に合わせる必要があることは、私にもわかった。その割にはのんびりしているように見えたが、彼らにとっては毎週の出来事なのだ。焦る必要もないだろう。興味深そうに覗く人間も、多分私一人だった。

 

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■喜べ成人女性、君の願いはすぐに叶う


 クレーン車の上、二人仲良く並んで看板を直す業者の背中を、可愛らしいなと眺めつつ、坂道を登る。同じ六本木で催されているという「TYPE-MOONFate/stay night  -15年の軌跡-」に向かうためだ。
 TYPE-MOONとは、Fateシリーズで知られる、同人サークルからゲームメーカーになったブランドのことだ。家族の同僚からクッキーのお土産をいただいたことで、開催時期が上京する日程と被っていることに気付き、こうして足を運ぶことになった。道のりの途中、急な坂道に何故か見覚えがあるなと思ったら、同じくFateを題材とした舞台を観るため、今は無き「Zeppブルーシアター六本木」に来たことがあったのだった。縁のある土地なのか。

 

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 女子総合学園の前に展示会場があるとは。学生は皆、このポスターを横目に登校しているのだろうか。お祝いにふさわしい凜ちゃんのビジュアルとも相まって、エレガントである。
 
  

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 TYPE-MOONの代表作、Fateシリーズの看板キャラクターであるセイバーの1/1スケール(等身大)フィギュア。量産体制の整ったものでも、お値段は数百万円になると聞いている。イチから作るとなると、どのくらいかかるのだろう。
 

 同人ゲームから始まったFateシリーズをはじめとして、TYPE-MOONが手がけた数々のゲームの初期設定、 制作資料などの展示が続くのだが、一つお目当てがあった。シナリオライター奈須きのこ氏が、たった一人に宛てて書いた手書きのシナリオをどうしても見たかったのだ。撮影禁止のため、自分の肉眼で捉えるしかない。
 シアタールームに通されて、展示会のために作られた映像を浴びる。2次元関連の展示はいくつか巡ったが、まさしく作品の世界の中に容易に巻き込まれることができるので、最初にシアターコーナーを持ってくるという常套手段は、良い文化だと思う。

 

 シアタールームを抜けてすぐ、目的は達成された。 十歩ほど歩いた突き当たりの壁に、数枚のルーズリーフが展示されていたのだ。 高校生時代の奈須きのこ氏が、現在のTYPE-MOON代表でありイラストレーターでもある武内崇氏に向けて書いた、Fateの原案の手書きシナリオだった。

 可愛らしく、丸まった文字が丁寧に並んでいる。平日ということもあり、ゆっくり文字を追うことができたのだが、高校生でこの文章力か、と舌を巻いてしまった。日本語のおかしい箇所は一切見受けられない上に、純粋に面白い。自分が高校時代に作ったレポートを最近眺めたのだが、変な造語がぽつぽつ並んでいた事を思い出す。
 現在のFate/stay nightの元となる一場面がそこに記されていたのだが、素人目にはほとんどできあがっている様な状態だった。 物語に登場するマスター( 強力な使い魔であるサーヴァントを使役する人間のこと。 プレイヤーもこれに含まれる)に関する設定が、現在はよりシンプルになっていることだけは分かった。


 SNSで見かけた感想の中に、「きのこが社長に宛てて書いたラブレターのようだ」 という言葉があった。我が子でもある作品を、大切に書き起こす、丁寧な字。一枚の紙に込められた熱。その通りだと思う。ここからTYPE-MOONが始まったのだ。夕焼けが鮮烈に差し込む教室を思い浮かべてしまう。学生鞄の中にたくさん入っていただろう、替えのきくルーズリーフの内の1枚が、こんな形で展示されることになるとは、彼らは想像すらしていなかったのだろう。
 いや、きのこなら想像できていたかもしれない。多分、できてる。

 

 多くの人の元へ作品を届ける出発点、TYPE-MOONの事務所の机配置や、これまで公開されていなかった設定資料がずらりと並んでいる。人垣に混じって、眺めて、次に向かうことを繰り返す。気になってはいるものの、まだ物語に触れられていない作品については、あえてぼんやりと眺めるだけに留めた展示もあった。心の内に積んでいるゲームがどんどん増えていく。「 出自そのものが罪」なんていう、可憐な見目の女性がメインで登場するなら、どうしたって気になってしまう。

 これまでに立体化されたキャラクターがずらりと並ぶ部屋もあった。先週発売されたばかりの、自分が愛してやまないキャラクターも、端にストンと展示されていて、嬉しくなってしまった。
 
 Fate/stay nightに3つのルートがあることに則り、TYPE-MOON展では3つの会期が代わりばんこに登場する。私が巡り会ったのは2つ目の会期だった。次の予定が控えていたため、少し早足で回ることになったが、会場の大きさと私の残り時間が見事に一致し、十分満足して、いくつかの気づきも得て、 穏やかな気持ちで後にすることができた。
 翌週から始まる3会期目の入場者特典に、自分の推しの初期設定資料が掲載されることを知り、全く穏やかではいられなくなったことはここに付け加えておく。

 

 


■新宿にて、お姉様方と清酒を嗜む


 今回の旅には一つの大きな目的があった。「人と話す」ことだ。
 これまで一人で東京のイベントに何度も足を運んだが、本を頒布してもらう時、接客業の方に相づちを打つ時位しか、声を発することはなかった。それが今回は、ほぼ毎日人と会う約束をしていたのである。一人旅だけれど一人ではないのだ。
 
 初日の今夜は、 東京に住んでいる家族と飲みに行く約束をしていた。この「飲む」 という行為が重要なのだ。どうして平日の金曜日に、わざわざ有給を取得して、イベントの前々乗りをしていたのか。平日しか営業しておらず、かつこの2月末をもってのれんを下ろす、新宿の日本料理店に行くためだ。


 東京に一人で住まう家族には、行きつけの店があった。これがこのお店だ。前に一度連れて行ってもらった事があったのだが、 素朴な見た目からは想像もできない、何層にも広がる知らない味に圧倒された。いつかまたと願っていたのだが、たまたまあらゆるタイミングが合い、もう一度だけのれんを潜れることになった。何かしらの神さまの計らいに感謝である。

 

 地下鉄を伝い、新宿の夜に顔を出す。 きらきらとした照明が目に染みる。この街には、 舞台観劇のために急遽双眼鏡を探しに来たり、 スーツケースを現地調達したり、美味しいパン屋さん(本店は京都) を見つけたりしたことがあったか。ここが副都心なら、真の「都心」はどこになるのだろう。調べてみると、千代田区、港区、 中央区がそれに当てはまるらしい。
 新宿西口駅を待ち合わせに決めていたので、新宿駅という魔境には巻き込まれずに済んだ。家族と歩幅を合わせて青色ののれんへ。マスターとアルバイトのお姉さんが暖かく迎えてくれる。奥の座敷を示されると、そこには私たちの席、そして常連客のお姉様方がおわしたのだった。

 

 閉店するお店を偲んで、常連客が集結する。 そこにお呼ばれされた私は、座布団にちまりと収まりながら自己紹介も兼ねて声をかける。すでに、場の雰囲気が関西のそれとは違う。関東のお洒落な、シュッとした落ち着いた受け答えだ。知っていたぞ。知らんけど。 シティ的な香りもする。なあなあで突っ込むような常套手段は使えない、どうする。
 
 清酒を1合ほど染み込ませば、何の問題もありませんでした! お姉様方が持ち込んでいたどぶろくも頂いてしまう。長野でそれを味わったことがあるのだが、それよりも淡く、飲みやすい。雪みたいだった。
 お話を伺うと、グループの内の半分はこのお店の常連で、あとの半分は常連さんの会社の同僚とのこと。新宿で働くオフィスレディだ。文字に起こすと尚格好いい。アルコールも相まって、私の周りがきらきらして見えてしまう。
 光り輝くお姉様方はお酒にも非常に強い。 最初にアルコールに強いかどうか聞かれた際、「普通です」と答えて正解だった。その中で一人、 漢気が強すぎてアニキと崇められている方の武勇伝が座敷を盛り上げる。宅飲みの最中、ふっと外に出て、 近所の小売店の番重の塔(パンの輸送等に使われる、 重ねられるプラ製のトレー)を、 己の拳で崩していたこともあったらしい。(翌朝すぐに直しに行かれたとのこと。完璧だ)
 ところで、私の愛してやまないキャラクターも、漢らしい性格故に、ファンからアニキと呼ばれることがままある。そして彼はプレイヤーのことを大将と呼んでくれる。
 漢エピソードが溢れる度に、アニキ~〜とほうぼうから声がかかる。そしてマスターに向かって、大将と声が投げられる。その二言に推しを見出してしまう私は、現実とそれの境界が曖昧になる、不思議な感覚を楽しんでしまったのだった。

 

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 マスターはこうして、 最初にありったけの清酒を並べて写真を撮らせてくれる。 ここから、各々が琴線に触れる物を選び取っていくのだ。

 

 料理についてここに連ねたい。お通しとして最初に並べられてた4品は、それぞれ素朴な見た目なのだが。一口含んでしまえば、頭蓋骨のどこかに風が通ってしまうくらい、 はっとさせられてしまうのだ。素材と調味料が何層にも重なる。 じゃこと水菜は完璧な均衡を保ち、なめことクレソンがねっとりと絡み合い、春菊は訳のわからない旨みを広げる。そして、豆腐? ふーんと口に入れた瞬間、えもいえぬ白が口の中を支配した。 クリームチーズと豆腐が混ざり合い、「クリームチーズ豆腐」として存在を確立していたのだ。 アクセントは味噌だろうか。なんだこれは。 何故今までこれに出会わなかったのか。
 お通しで心がいっぱいになってしまったところに、 セロリを中心としたおつまみが登場する。 自分は瓜系に弱いところがあるのだが、それでも( キュウリだけは家族に味わってもらい、それ以外は全部) 美味しくいただけてしまった。 料理を通して人間的にも成長してしまったのだ。

 

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 タマネギがくたくたに煮込まれた甘いスープ、 私が是非にとリクエストした、 海鮮とフルーツがちりばめられた美しいサラダが訪れて、 私の内側に去ってしまう。いいや、取り込んでいるのだ。 全部を私の血肉にしてしまえ。
 セイコガニにこれでもかと詰まったプチプチを噛みしめながら、清酒を含む。これだ~~。 最近味を混じり合わすことを教えて貰ったのだが、この旨みの洪水には何者も勝てない。締めに温かいせんべい汁を吸う。優しい旨みが潮のように打ち寄せて、染みていく。
 美味だった。ここに来られて良かった。家族との時間を大切にしたいからと、 次の人生に向かうマスターに幸あらんことを。 抱えきれないほどの幸せが、彼と彼の家族、そしてアルバイトのお姉さん、きらきらの都心オフィスレディたちに降り注ぎますように。

 

 ふわふわとした足取りでのれんをもう一度潜り、夜の街へ繰り出す。繰り出して5分後、駅構内に着く。ふにゃふにゃ加減に心配した家族は、 最寄り駅まで送ると申し出てくれたが、帰巣本能が強いのか、今まで帰れなかった事はないので大丈夫と押しとどめる。
 家族とはホームでお別れだ。電車の中から手を振って、だんだんと距離が離れていく。次に会えるのは冬頃だろうか。お姉様方から隠すようにそそと渡したチョコレート、楽しんでもらえるだろうか。

  大きなビルがそびえている駅に着き、柔らかい光を放つ駅構内をぐるぐると回り迷って、ようやく地上に出る。道の真ん中をずいと進んでいる人間が、急に踵を返して進行方向を変える様子は、東京あるあるだったりするのだろうか。私はよくやるのだが。
 静かな夜を一人歩いて行く。半地下道には青い光が漂っていて、都会的で美しかった。

 ホテルの清潔な部屋に辿り着いたなら、お風呂に栓をして湯をためる。フロントに直接届けてもらった、イベントで使う名刺とポスターの発色の美しさをうんうんと拝み、湯を止めた。
 
 かくして、楽しい旅の一日目は大団円を迎えた。次の朝に備えるため、身を清めなければと服を取り去るが、アルコールが少し引いてから湯に浸かろうと、布団に転がった。
 このままシャネルの5番の代わりに清酒の残り香を漂わせて、明くる朝を迎えることになる。次の日は銀座を巡る予定にしているのだ。楽しみで仕方ない。

 意識が曖昧になっていく。きれいなシーツに包まれて都会の真ん中で目覚めたら、何を思うのだろう。朝食か、昨日の展示か、楽しい夜の一時のことか。そんなの一つに決まっている。
 風呂に入らな。

 

 

→→■ 2日目[銀座ぶらぶら ビールをなめつつ東大の教授のお話を聞く]

近日更新予定

 

 

参考URL:

「未来と芸術展:AI、ロボット、都市、生命─人は明日どう生きるのか」森美術館公式サイト

https://www.mori.art.museum/jp/exhibitions/future_art/

 

ウィトルウィウス的人体図wikipedia 

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ウィトルウィウス的人体図

 

「WIRED Audi INNOVATION AWARD 2019.Awarded Innovator.Art.やくしまるえつこ

https://wired.jp/waia/2019/19_yakushimaru-etsuko/

 

TYPE-MOONFate/stay night  -15年の軌跡-」公式サイト

https://type-moon-museum.com

 

 

 

映画すみっコぐらしは、恐ろしい程刺さってしまうタイプがいる

 

「映画 すみっコぐらし とびだす絵本とひみつのコ」を観た。

 


自分は普段、アニメや漫画、ゲームを楽しんでいて、二次創作として小説を書いたりしている。
劇場にアニメを観に行くとしたら、そういった類のものしかお金を払わないはずだった。
細胞分裂した自分の子孫もいないのに、まさか自分が子ども向けの映画を一人で、チケットを前日に買って、仕事を早引きして観に行くとは。
(子ども向け故に、夜に上映を始める映画館がほとんどなかったのだ)


観に行った理由は、ネットの海に流れてくる評判が良かったからだった。
「やわらかい某人理修復ゲームシナリオライター」「子どもを連れて劇場に潜ったら某義体電脳戦アニメを観たような衝撃を受けた」なんて感想を見たら、観に行かずにはいられなかった。


感想を連ねようと思う。
帰ってきてから、映画で感じたものを取りこぼさないように、急いで書き終えたため、推敲ができていないのはご容赦いただきたい。


今の時点で少しでも観てみたいと思っている人、アニメーションを愛する人、漫画、絵本、いわゆる2次元、平面に乗った何かを愛したことのある人は、どうか何も触れずに、彼らと不思議な旅を楽しんできてから、この文を読んでください。


以下、ネタバレを含みます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


劇場は、途中で飽きそうになっても、私たちを座席から逃がさないという役目を担うことがある。


緩慢な50分が続いた。
真髄は最後の数分、特に最後の数十秒とエンドロールにあった。


映画は個性豊かな「すみっコ」達の紹介から始まる。まるっこい形のパステルカラーのキャラクターには、それぞれ愛らしい、少し重たい個性が詰まっている。今作の主人公は、自分探しを続ける緑色のペンギンだろうか。
彼らが隅っこで暮らす生活を垣間見た後、ひょんなことからすみっコ達は不思議な本の世界に迷い込み、物語は動き出す。


そこに現れた、すみっコによく似た灰色のひよこ。彼は自分がどこから来たのか分からないらしい。人の良いすみっコ達は、特に彼にシンパシーを感じた、自分探しを続けるペンギンを筆頭として、灰色のひよこの元いた場所を探し始める。


緩慢な、予定調和な、明るく楽しい時間が続く。多分50分くらい。元々この作品はどう考えても子ども向きだ。子どもには、分かりやすくカラフルな世界を楽しんで欲しい。
もしかしたら、自宅でなんとなく映画を見ていたのなら、チャンネルを変えてしまったかもしれない。子ども向けだから当たり前だ。ここで、劇場という私たちを縛り付ける場所が、良い力を発揮してくれた。


灰色のひよこの家は、なかなか見つからない。
楽しかった絵本の中の旅も終盤に差し掛かり、それまでのカラフルな世界とは違う、終わりのページに相応しい空間が広がる。
不思議な旅を楽しんだら、キャラクターは必ず元いた場所に帰らなければならない。ドラえもんの映画みたいに、クレヨンしんちゃんのあの映画のように。
ここで、灰色のひよこの出自が明らかになる。


すみっコたちの住む世界に、一緒に行こうと皆は言う。

灰色のひよこは大喜びで、どこかの場面でシロクマが摘んできたであろう、仲間の印のお揃いの花を、身につける。
でも、灰色のひよこは行けない。行きたくてたまらなくても、どうしようもない。彼の存在する世界の決まりだから。
彼らは一緒にはいられない。


空に、元いた世界に戻るための道が開く。
灰色のひよこは、彼らを見送るべく、何も言わずに遠くで佇む。
帰るために必要な塔が崩れかけた時、灰色のひよこはそれを力一杯支える。ひよこの目から溢れる不思議な涙が、外からやって来た、彼らだけが通れる道を広げる。
全部が終わった後、祝福するように舞う、ばらばらになった仲間の印の花弁。

 


すみっコ達の世界に、灰色のひよこが拒否されることは、薄々察していた。決定的になった瞬間、重たい気持ちが喉を覆った。
もちろん、ここまで積み重ねた時間分、彼らの旅の終着は心に響いた。でも別に涙は落ちたりしなかった。
住む世界が違うものは、別々の場所に戻らなければならない。それはありきたりで、私たちが何度も見たことのある、よくある物語だ。
灰色のひよこはもう大丈夫。同じ絵本の中で出会った、すみっコ達が帰れるように一緒に塔を支えた、物語の住民たちがいる、


そんなことはない。


一緒に塔を支えた生き物たちが、元のすみかに戻ったのなら、そこに居場所のないひよこは、どこに行ってしまうのだろう。

 

 


真髄は最後の数十秒にあった。
元の世界に戻ってきたすみっコ達。よくある風景だ。大冒険を経て、彼らは元の暮らしに戻っていく。彼には、二度と会えない、


会えるのだ。ペンギンの手元には本がある。
本のページを捲ると、そこに、動かない灰色のひよこがいた。

 


彼らの世界は決定的に違う。あの中での出来事は、全部夢だったと片付けられるかもしれない。
夢でも良い、幻でも良い、彼の中には、確実に灰色のひよこと過ごした物語があった。一緒にいたすみっコ達とその思い出を共有できるのが、ペンギンにとっての幸運だったけれど。


でも、彼の手元、彼の目の前には、確実に灰色のひよこがいるのだ。表情の変わらない、ページの片隅のひよこ。でも、間違いなくそれはペンギンにとってのなかまであり、友達だった。

 


すみっコの心情によく似たものを知っている。
私たちも、自宅に帰ってきた時に、平面の何かをずっと眺めたりしていないか。映像や、紙の上に重なった彼らの物語に、何度も想いを馳せた経験はないだろうか。


確かにそこにはない。でも、確実に存在するもの、それが動かない灰色のひよこだった。
あの一瞬の映像、恐らく10秒にも満たない、彼を見つめるすみっコの姿に、自分の大好きなものを見つめる自分を重ねてしまって、それに更に彼らを重ねてしまって、瞬間的に私はだめになってしまった。

 


物語は、これで終わらない。
どうしても想いを寄せてやまない物語の続きを書いたことはないだろうか。想像したことは。彼らのことを、紙の切れ端や文字で書き起こしたことは。

 


すみっコが集まって、絵本に何かを描いた。


本に描かれたものは、灰色のひよこは勿論、なによりもすみっコ達の心を寂しくないものへと導いた。
集団幻覚かもしれない。でも、これは紛れもなく彼らにとって、確かにあったことだった。
すみっコぐらしという映画の中での出来事だから、ひよこも間違いなくその世界に存在している。だからそれが、本当のこと だと分かる。


エンドロールについて。灰色のひよこの元に寄り添うものたち。ひよこが旅したものたちとは違う、でもひよこの大切な友達になったことには違いなかった。
なによりほら、あんなに個性を受け継いでいたら、彼らでなくても、彼らと変わらないと思う。

 

 

 


自分の話になる。
前職で何かがギリギリだった時、出来るだけ駅のホームで、ホーム端を歩かないように意図して足を踏み出さないといけなかった頃、私を支えてくれていたのは、家族と、大好きなキャラクターだった。
実際に話しかけて貰えている訳ではない。ゲームでは確かにこちらに話しかけてきてくれてはいるけど。彼らが意思をもって、私を救ってくれている訳でもない。
でも、確かな意思なんか無くとも、画面や紙に彼がいるだけで、彼の格好良さや美しさに見惚れることで、辛く苦しい明日のことを一瞬でも意識から追い出すことができた。小さな画面の中に流れてくる二次創作を目にするだけで、確かに私は救われていたのだ。


 家族と彼を支えに、なんとか持ち堪えて、区切りの良い時に会社を辞めた。大切にしていた、どうしても苦しい時に胸にかかえて眠ることもあった模造刀を、折角だからと大事な式に持ち込んだ。今までなら安全牌をとって、つまらない仕事をしていたところを、少し安定しない、でもやってみたかった、ちょっとだけ大好きなキャラクターの匂いがする仕事に就いた。昔から好きだった文章の塊を、もう一度、書けるようになった。


私は平面上のキャラクターに、胸をときめかせ、心を踊らせ、支えられて守られてきた。


好きなことが心の支えという言葉はよく耳にする。恐らくこれと、同じ経験をしたことがある人は、いると思う。
芸能やスポーツ、本や手芸。趣味は人生を豊かにし、時にはそっと支えてくれる。
その中で、アニメーションや漫画、いわゆる平面の上にあるものを愛する人
また特に、何かを書いたことがある人にとって、この映画は、自分たちを、自分の好きなモノ達を思い起こさせる物語であり、これからもずっとそうなのだろうと、予感させる作品だった。

映画という、動画と静止画の両方が存在できる媒体であることも、すみっコ達と、本の上の灰色のひよこの違いをハッキリと表現できる、素晴らしい手法だったと思う。


すみっコ達にとっては現実の出来事だった。私たちが今見ているものは、集団幻覚かもしれない。多分幻覚だ。でも、確かに私の中の大切なキャラクターはそこにいるし、どうか幸せになってほしいと願って、何かを書いている。


私たちが愛するものは現実の世界には存在しない。でも、確かにある。
机の上で、モニターの中で、私たちを支えてくれている。


私が書いた彼らも、私の及ばない平面の中で、少しでも幸せになってくれているのだろうか。


エンドロールの灰色のひよこを見ていると、想像だとしても、そこにいないとしても。私の大好きなキャラクターが幸せになってくれていると、少しだけ、確信することができたのだった。

 

 

 

君は法螺貝奏者に囲まれて映画を観たことはあるか

君は応援上映に行ったことがあるか。

本来静かにあるべき映画館の中で、大声を出して光る棒を振り回すあれだ。
キンプリが大いに盛り上がっている時、私は典型的な社畜で、家やカフェに仕事を持ち帰り、遂に参加することは叶わなかった。


推しの名前を沢山の人と一緒に叫ぶ経験をしたことがあるか。
自分が定期的に出向くのはスキマスイッチのライブくらいだ。光る棒は物販に無い。推しの名前を、棒をふりふりしながら呼ぶ機会は、あまりない。


心の中でわ〜そわそわわ〜と自分自身に推しの話を囁く時代が続いた。オタクが居ない職場で日々が過ぎ、日常会話の中ですら滅多に推しの名前を口にする機会はなかった。

 

 

そこに光あれと機会を与えてくださったのが、スーツ姿の男が踊り狂い頭からポップコーンを撒き散らす映像を撮った人、耶雲監督である。

 

映画刀剣乱舞。先の監督がメガホンをとり、アニメのクレジットで名前を見かければ勝利が約束される小林靖子女史が脚本を手がけ、チケットがなかなか取れない刀ステの神がかった面々が出演する。
重大告知で実写化の文字を見ると、1歩どころか1キロ距離をとってしまう昨今の映画界において、あまりに約束された勝利である。

 

映画は最高の出来だった。見終わったら考察を書き連ねようと意気込んで劇場に潜ったが、あまりにも最高な特撮映像と推しの顔の良さに心の小学生が走り出し、おもしろ〜いと口を開けて周回するしかなかった。
考察ブログやふせったーは是非漁ってほしい。
三日月の真意だったり、不動くんの心のうちだったり、ふとした演出にも、もしかしてこんな意図が…と、各方面の深読みマンの叡智が結集している。
個人的には、映画での出来事を通して推しに語りかけるに至るあの人の場面が心を引きつけてやまない。


全国の審神者が気付かぬうちに自主周回を行なっていると、遂に応援上映の開催が決定される。
惜しむべきなのは、初回の全国同時応援上映に参加できなかったことだ。身体の20%を牡蠣に置き換える、楽しい旅に出かけていた。
同時応援上映の成功を受けて、全国の劇場がそれぞれ開催を告知する。
ここで、応援上映という大海原への処女航海を決めた。


せっかくならギュウギュウの劇場で棒をふりふりしたいと、都市部の混みそうな場所を選んだ。
花丸のイベントに持って行って以来、防災袋に入っていたキンブレを引っ張り出す。
いざ出陣である。

 


目論見通り劇場は満員だった。
客席を見渡すと、フィギュアやぬいを持ち込んでいる方も見受けられ、“本気と書いてガチ”なのが伝わってくる。
本編が始まる。応援上映超初心者は、他の人の腰巾着になって、追随して推しの名前を呼ぼうと目論む。
運良く、かなり応援上映に手慣れたグループが客席の中ほどにおり、客席を牽引して盛り上げてくださった。
いいぞいいぞ、推しの名前を呼ぶぞ〜と棒をふりふりする。


しかしここに致命的な落とし穴があった。

応援上映手慣れグループの中に、推しの同担の方がいらっしゃらなかったのである。
冒頭で脚〜〜!と一緒に叫べたものの、本編で推しが良い顔をチラチラさせている時に、絶妙な無言の時が過ぎる。客席を見ると同じ色にキンブレを光らせている人はいる。だが、推しへの想いを内に秘めまくる人が大集合していたのだ。推しの名前が出てこない。
腰巾着を目論んでいたごますりマンは、見事に玉砕した。私と同じく手慣れグループに同担が居なかった男性は、自らの推しを声に出して推していたのに。初回の照れが優って、自分の推しの名前を声に出せなかった。
偶然は重なり、上映開始直後にキンブレが壊れて推しの色が出なくなる。無言のアピールすら出来なくなってしまったのだった。


せっかく推しの名前を声に出せる機会が巡ってきたのに、声に出せなかったとは!と、布団に潜って布の大福を作り出す自分と、でも初回で自分一人で声出すのはムズイよなぁと布大福をポンポンしてくれる自分がぐるぐるする。
このままでは応援上映にトラウマが残りかねない。そもそも推しを声に出せる機会がまた巡ってくる保証はない。

 


ここで丸くなった布団に光が一筋差し込む。
高校野球なら甲子園、創作活動ならビックサイト。
劇場で推しを声に出す聖地、塚口サンサン劇場での応援上映開催決定である。
関西圏で衣食住を営んでいるので、なんか凄いらしいというのは風の噂で聞いていた。
調べると、全国から応援上映の猛者が単独行動も厭わずに集い、懐の深い劇場が昂ぶった者たちを優しく包み込んでしまうらしい。
前回は推しを心に秘めまくる一員になってしまったが、鶏白湯鍋が煮詰まったシメのスープのように濃い方々の中に飛び込めば、心の中の推しの名前を声に出しやすいのではないか。


運良くチケットが手に入った。クレカ決済で退路を断つ。猛者の中に飛び込むしかない。


会場に着くとまず凄いのが目と耳に入る。事前の注意事項でtwitterのタイムラインをざわつかせた、法螺貝である。
凄い音でブオブオ鳴っている。素敵な着物をお召しになった方も含んだ大人数がわらわら集い、法螺貝がブオブオしている。何も知らない人から祭りだと絶対思われている。でも祭りには違いないのだ。後で知ったが、チケットが手に入らなかったにも関わらず、愛知から法螺貝を鳴らしに飛んできた方もいらっしゃったらしい。凄い熱意だ。法螺の音は確かに引き継いだ。次はこちらが推しの名前をブオブオする番だ。


劇場に入ると、日本で一番綺麗な映画館のトイレが出迎えてくれた(初手でお手洗いに行っただけです)。凄く光っている。突然お腹が祭りになってもゆっくり映画を楽しめるように、生理用品も用意があるらしい。妙にアメニティが揃っている居酒屋以外で初めて見た。
最高のおもてなしを受け、前日に刀ステ虚伝のBlu-rayを見返し、推しへの想いが最高潮に昂ぶっている自分に、怖いものは何もない。
嘘です。興奮して神経が昂ぶったのか、応援上映に緊張したのか、お腹の腸がタップダンスを始めたのだ。
日本一綺麗な劇場トイレで、こういう事もあろうかと持ち歩いていたストッパを飲む。薬をやたら持ち歩いているのは、推しを意識してのことである。結果的に推しにお腹を救ってもらえた。


お手洗いを出ると廊下が続く。古き良き映画館を思い出し、無性に懐かしくなってしまった。ポスター、サンサン劇場での公開日らしき日付が入っているけれど、まさかお手製なのか。この廊下の通りを歩くだけでも価値がある。絶対また来よう。

 

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廊下を歩いていると、一際大きな法螺貝の音が響く。開場の時刻だ。であえ〜〜!!!

 

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もちも興奮して発光している。


席に着くと、前回の大反省を活かして両隣の方にご挨拶をした。互いの推しを自己開示する。これで暗闇の中、推しの名前を声に出す下地は整った。お互いにwin-winだと信じる。
キンブレをカチカチして待つ。すると、なんと自分の近くにあの法螺貝の方が座ったのだ!
法螺貝を持って来られる方なら、恐らくマジの猛者である。早速鶏白湯のスープが煮詰まってきた。良いぞ。
それだけでは終わらなかった。まさかのもう1人の法螺貝の奏者も自分の近くに座られた。推しのコスプレをされた方もだ!鶏白湯が超濃厚スープに進化する。最高だ。


劇場の支配人の方が舞台に上がる。
とても愛のこもった前説で、我々は拍手をしてキンブレを振り回す。
話の途中で、土足厳禁でしたね!と、舞台上で靴を脱がれる!!我々はさらに手を叩きキンブレを振り回す!!
拍手で支配人をお送りして、ついにスクリーンへの投影が始まる!!


応援上映で初めて名前を声に出した推しは、アレクでした。
予告が流れて、気付いたら声に出していた。応援上映の神はやはり、キンプリに宿っているのかもしれない。
シンくん〜!!と呼びかける声の大きさが、既に想像していた応援の声を逸している。
予告の時点で自分への勝利が約束されてしまった。


鈴木さんの応援上映の説明VTRが流れる。この時点で歓声がすごい。と思ったら、VTR終盤の出陣の祠の場面で、出陣部隊が映った瞬間、劇場は叫喚する。皆の推しがスクリーンに写ったからだ。私も黄色い声が出た。


本編が始まる。キンブレ持ち込み率が高いのか、本能寺が燃える前からスクリーンが赤い。
よし燃やすぞ!!


そして待ちに待った瞬間がやってきた。冒頭の超かっこいい自己紹介ムービーだ。


薬研さん。推しの名前を、思い切り声に出せた。
劇場全体が皆の名前を呼ぶ。とても楽しい。
前回どうしても声に出したかったけど出せなかった川のシーンで、「川だ!!!」と騒ぐことと、推しの手首が綺麗!と声を出すことができた。誰かの応援に頼って追随することなく、自分の声で。わかる!とも言って貰えた。そもそも川のシーン始まりは、劇場が待ち構えすぎていて、皆好きなように叫んでいたが。


様々な場面で、皆の声が聞こえる。ここ大好き…と、素で呟く声も聞こえる。
自分でも叫んでいたので良く分からなかったが、イッキコールの盛り上がりは、かなりの声量だったと思う。
戦闘でも皆が皆を応援した。心の小学生は思う存分走り回る。
エンドロールで口々に感謝の言葉が出る。ありがとうの気持ちを込めながら精一杯拍手とキンブレをふりふりした。
映画が終わる。すごい拍手だ。
上映終了とともにまた支配人の方が挨拶に来られた。大きな拍手を贈る。

 


かくして、推しの名前を声に出して推す夢は叶った。いつも心の内に秘めていたお名前を声に出すことは、とても楽しかった。


塚口サンサン劇場という、猛者が集う温かい場所で、本当に最高の体験をさせてもらえた。
勿論、他の劇場の応援上映も素晴らしい。ただ今日は、特別感をもって来場されている方が多くて素敵だったのだ。それぞれが特別な想いを胸に抱いて集うことで、塚口サンサン劇場を聖地たらしめているのかもしれない。
凄く楽しかったよ〜〜!!(キンブレふりふり)


感謝の気持ちを込めて、ポップコーンをお土産に買って帰る。
ポップコーン、モリモリ入って250円って安すぎませんか…

 

ボーイ・ミーツ・ワールド【ペンギン・ハイウェイ感想】

 

自分で追った結末に敵うものはないと思っているので、決定打になるようなネタバレは避けて書いているので安心してほしい。

 


森見登美彦さんの本が好きだ。

インフルエンザで全身筋肉痛になっている時に「夜は短し歩けよ乙女」に出会った。

A6判の長方形の中に楽しいことが全て詰められている中村佑介によるイラストと、あらすじにときめいて買っていたのだが、本を開くと独特の文章が現れ、正直読み進められるか不安になった。

が、5ページ進めるとその文章の世界が普通になってしまい、筋肉痛に苦しむ指で最後までページをめくり続けることになる。

頭の良い大学の学祭で見かけるようなオモチロイ人が、京都で右往左往して生を謳歌する世界に私は没入した。それ以来京都の大学に謎の憧れを持つことになる。今年こそ学祭に潜入してクジャク同好会の名前の長いクジャクを見に行きたい。


本屋大賞発表直後に平積みされている本をめくって閉じてしまった人は、是非数ページだけ読み進めてほしい。すぐ心配はなくなってしまうから。

それでも自分は慣れないぞ、もっとすんなりした文章でないとという人にはこれだ。

 


ペンギン・ハイウェイ

 


普段の読み口こそ森見ワールドの極なのだが、ペンギン・ハイウェイ森見登美彦さんの本なのに文章がさらさらしているのである。

本を開いて陳列させていれば先生の本だと容易には気付けない。

なぜさらさらしているのか。主人公が腐れ大学生ではなく小学生だからだ。

この世界は、聡明な小学生のアオヤマくんが、住宅街にペンギンが現れた事象から研究を進め、ある説に辿り着く話だ。

このお話が凄いのは、ページをめくり続けると節ごとにアオヤマくんの研究成果や仮説が提示されるので、本という媒体であることも手伝って、とても分かりやすい論文を読んでいる気になれる。

アオヤマくんの目を通して、一緒に観察しながら研究を進め、最後に仮説をひとつひとつ考察して紐付け、心が震えながら結論に到達することができるのだ。

 


この読書体験があったので、映画はどんなものになるのか、実は少し遠い所から傍観していた。

論文や研究成果をまとめるのに相応しい「本」の中で、研究を一緒に(勝手に)追いかけて、時にはページを戻して仮説を復習し、最後の説に辿り着いて、アオヤマくんのある独白で締められる読書体験を超える事はとても難しいと感じていたからだ。

私は学生時代にこの作品を講義で布教したことがあり、そのことを知っている友人が誘ってくれて、ようやく映画館に足を運ぶことができた。

 

 

映画は冒頭でオープニングが流れるものだ。

オープニングの音楽で、この映画が素晴らしい「映像化」になる予感が確信を持って押し寄せてきて、冒頭5分で視界が潤んでぼやけてしまったのだった。


映像化によって、アオヤマくんのノートは筆跡まで見えるようになり、生き生きと動く瞳や海も目にすることができた。

読書体験の際に、結論の予感にどきどきし過ぎて見落としてしまっていたものにも気付かされた。

 

音楽はまるで7月20日だった。

私たちも連休前の夜に、ちょっと良いスーパーで一缶用意したり、ささやかな祝杯をあげるレストランに入ったりした時は嬉しくてそわそわする。

きっとその「大人のそわそわ」を軽く飛び越えてしまうだろう。これから1ヶ月以上も続く夏休みが始まり、走り出す小学生の気持ちと、その先に待つ夏休みの終わりの哀愁をほんのちょっと加えた心そのものだった。

今年の夏は映画館によく潜っているのだが、それでもスピーカーに目が行ってしまうくらい、劇場で浴びる音が素晴らしかった。

iTunesなどで簡単に試聴ができるので、サウンドトラックの一曲目と二曲目で片鱗を感じてほしい。


劇場を出てから堪らずパンフレットを買ったが、アオヤマくんのノートの中を鮮明に見ることができたし、歯が抜けるシーンにそんな解釈があったのかとハッとする文章も載っていたので、これもお勧めしたい。

 


原作で最高の読書体験をして、アオヤマくんの成果を元々知っている状態でも、もう一度彼と心を震わせながら研究結果に辿り着くことができた。

個人的に今年一番の作品になりうる映画だ。

本で見守っていた人はもちろん、色々物事をじっくり考えることが好きな人、研究とか仮説とかが好きな人は、劇場でアオヤマくんと一緒についていった方が良い。

 

それともう1人、尾を引く物語に引きずられる傾向がある人にも、アオヤマくんを観察する座席のチケットを買って、エンドロールの宇多田ヒカルを聴くことをお勧めする。

同じくペンギンを題材にしたあの地下鉄アニメや、人理を守るあの話にも引きずられ続けている自分にとって、同じ魅力を感じる物語だからだ。

 


アオヤマくんは二つの研究を同時に進めている。

実は彼を見守る私たちなら、映画での彼の最初の邂逅の時点で、もう一つの研究の結果に気付けるのだ。

その結果は内緒にして、そのままアオヤマくんを見守ってほしい。

夏に浴びるべき最高のボーイ・ミーツ・ワールドに出会うことができるだろう。

 

 

チョコレートを噛む欲望

 

キャラメルチョコアイスが好きだ。

 


初めてハーゲンダッツのキャラメルクリスピーサンドを食べた時は、甘味の暴力に鼻腔を殴られた。

先日口にお迎えした、ホーキーポーキーアイスという、ニュージーランドでお馴染みらしいアイスも神の所業であった。

ホーキーポーキーとは、普通の白色のアイスに、カリカリのキャラメルのような粒が混ぜられているモノのことらしい。これの周りにキャラメルチョコレートをコーティングした箱アイスが、スーパーの冷凍スペースにひっそり置かれていた。

メジャーではない分、やはりパッケージが怪しげである。

中学生の頃、家族にねだってパッケージ買いした安アイス二箱がなんとも言えない味だった過去があるため、恐る恐るレジに通す。

結果、1週間の内に残り数箱だった在庫を買い切り、それからしばらく経つが、入荷はまだない。

 


ホーキーポーキーキャラメルがけアイスは真理だった。

これまでの人生でパッケージを見かけたことが無かったことから、また巡り会うのは難しいだろう。

だからといって、キャラメルチョコアイス欲を日常的にハーゲンダッツに求める行為は、高い土地の上層階に住む人でないと叶わない。

キャラメルチョコレートを噛みたい、同時にアイスも溶かしたい。

 


メシアは例年よりも気温が高い7月に現れた。

板チョコアイスのキャラメル味である。

 


初めてクリスピーサンドを噛んだ瞬間のパリパリ食感、大切にチョコレートに守られていたアイスを暴く所業が100円台で許される。

どのくらい美味しいのかと言うと、最近工場がイメージできるようになった。

 


まず表面の「板チョコ面」が生成される。

それらが裏返しになった状態でベルトコンベアを流れ、液状のアイスクリームが流し込まれる。

そのままチョコで蓋をしてはアイス液が溢れてしまうだろう。現に商品を見る限りアイス部分がはみ出ているところは見受けられない。

液を注がれた板チョコは瞬間冷凍される機械に通され、すぐさま固められるのだった。

その後、上から板チョコの裏側に当たるチョコを噴射され、また機械を通して固められ、上からフィルムを被され優しく包まれる。

同じ要領で外箱にも大胆に包まれる。

きっと勢いをつけて滑らせると割れてしまうだろうから、マヨネーズや缶詰工場にあるものよりも角度を10度ほど弱めた滑り台を滑り、外界に出るために外箱に詰められるのだ。

板チョコアイスは季節によって味が変わる。

少し前の冬にあったホワイトチョコ味は、買いだめを失念した事をとても後悔するくらい美味しかった。

きっと製造は全自動で行われ、ガラスで仕切った部屋から白衣を着た方が目視確認するのだろうが、フレーバーが変わる季節の変わり目の時だけ、マーブル模様の板チョコが出てこないように、零度以下の空間で凍えながら全レーンを見守るのだ。

(ここまで全てイマジナリー工場)

 


正確には塩キャラメルチョコ味だが、数年前の塩キャラメルブームで食べたお菓子はあまり琴線に触れなかったので、ここではキャラメル味とする。

 


ちなみにラクトアイスではなくアイスミルクであり、カロリーは281kcalとのこと。

この夏は乳脂肪分3%とお友達になれそうである。