いぬとまめのうすいホン

おさかなシロフォン

映画すみっコぐらしは、恐ろしい程刺さってしまうタイプがいる

 

「映画 すみっコぐらし とびだす絵本とひみつのコ」を観た。

 


自分は普段、アニメや漫画、ゲームを楽しんでいて、二次創作として小説を書いたりしている。
劇場にアニメを観に行くとしたら、そういった類のものしかお金を払わないはずだった。
細胞分裂した自分の子孫もいないのに、まさか自分が子ども向けの映画を一人で、チケットを前日に買って、仕事を早引きして観に行くとは。
(子ども向け故に、夜に上映を始める映画館がほとんどなかったのだ)


観に行った理由は、ネットの海に流れてくる評判が良かったからだった。
「やわらかい某人理修復ゲームシナリオライター」「子どもを連れて劇場に潜ったら某義体電脳戦アニメを観たような衝撃を受けた」なんて感想を見たら、観に行かずにはいられなかった。


感想を連ねようと思う。
帰ってきてから、映画で感じたものを取りこぼさないように、急いで書き終えたため、推敲ができていないのはご容赦いただきたい。


今の時点で少しでも観てみたいと思っている人、アニメーションを愛する人、漫画、絵本、いわゆる2次元、平面に乗った何かを愛したことのある人は、どうか何も触れずに、彼らと不思議な旅を楽しんできてから、この文を読んでください。


以下、ネタバレを含みます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


劇場は、途中で飽きそうになっても、私たちを座席から逃がさないという役目を担うことがある。


緩慢な50分が続いた。
真髄は最後の数分、特に最後の数十秒とエンドロールにあった。


映画は個性豊かな「すみっコ」達の紹介から始まる。まるっこい形のパステルカラーのキャラクターには、それぞれ愛らしい、少し重たい個性が詰まっている。今作の主人公は、自分探しを続ける緑色のペンギンだろうか。
彼らが隅っこで暮らす生活を垣間見た後、ひょんなことからすみっコ達は不思議な本の世界に迷い込み、物語は動き出す。


そこに現れた、すみっコによく似た灰色のひよこ。彼は自分がどこから来たのか分からないらしい。人の良いすみっコ達は、特に彼にシンパシーを感じた、自分探しを続けるペンギンを筆頭として、灰色のひよこの元いた場所を探し始める。


緩慢な、予定調和な、明るく楽しい時間が続く。多分50分くらい。元々この作品はどう考えても子ども向きだ。子どもには、分かりやすくカラフルな世界を楽しんで欲しい。
もしかしたら、自宅でなんとなく映画を見ていたのなら、チャンネルを変えてしまったかもしれない。子ども向けだから当たり前だ。ここで、劇場という私たちを縛り付ける場所が、良い力を発揮してくれた。


灰色のひよこの家は、なかなか見つからない。
楽しかった絵本の中の旅も終盤に差し掛かり、それまでのカラフルな世界とは違う、終わりのページに相応しい空間が広がる。
不思議な旅を楽しんだら、キャラクターは必ず元いた場所に帰らなければならない。ドラえもんの映画みたいに、クレヨンしんちゃんのあの映画のように。
ここで、灰色のひよこの出自が明らかになる。


すみっコたちの住む世界に、一緒に行こうと皆は言う。

灰色のひよこは大喜びで、どこかの場面でシロクマが摘んできたであろう、仲間の印のお揃いの花を、身につける。
でも、灰色のひよこは行けない。行きたくてたまらなくても、どうしようもない。彼の存在する世界の決まりだから。
彼らは一緒にはいられない。


空に、元いた世界に戻るための道が開く。
灰色のひよこは、彼らを見送るべく、何も言わずに遠くで佇む。
帰るために必要な塔が崩れかけた時、灰色のひよこはそれを力一杯支える。ひよこの目から溢れる不思議な涙が、外からやって来た、彼らだけが通れる道を広げる。
全部が終わった後、祝福するように舞う、ばらばらになった仲間の印の花弁。

 


すみっコ達の世界に、灰色のひよこが拒否されることは、薄々察していた。決定的になった瞬間、重たい気持ちが喉を覆った。
もちろん、ここまで積み重ねた時間分、彼らの旅の終着は心に響いた。でも別に涙は落ちたりしなかった。
住む世界が違うものは、別々の場所に戻らなければならない。それはありきたりで、私たちが何度も見たことのある、よくある物語だ。
灰色のひよこはもう大丈夫。同じ絵本の中で出会った、すみっコ達が帰れるように一緒に塔を支えた、物語の住民たちがいる、


そんなことはない。


一緒に塔を支えた生き物たちが、元のすみかに戻ったのなら、そこに居場所のないひよこは、どこに行ってしまうのだろう。

 

 


真髄は最後の数十秒にあった。
元の世界に戻ってきたすみっコ達。よくある風景だ。大冒険を経て、彼らは元の暮らしに戻っていく。彼には、二度と会えない、


会えるのだ。ペンギンの手元には本がある。
本のページを捲ると、そこに、動かない灰色のひよこがいた。

 


彼らの世界は決定的に違う。あの中での出来事は、全部夢だったと片付けられるかもしれない。
夢でも良い、幻でも良い、彼の中には、確実に灰色のひよこと過ごした物語があった。一緒にいたすみっコ達とその思い出を共有できるのが、ペンギンにとっての幸運だったけれど。


でも、彼の手元、彼の目の前には、確実に灰色のひよこがいるのだ。表情の変わらない、ページの片隅のひよこ。でも、間違いなくそれはペンギンにとってのなかまであり、友達だった。

 


すみっコの心情によく似たものを知っている。
私たちも、自宅に帰ってきた時に、平面の何かをずっと眺めたりしていないか。映像や、紙の上に重なった彼らの物語に、何度も想いを馳せた経験はないだろうか。


確かにそこにはない。でも、確実に存在するもの、それが動かない灰色のひよこだった。
あの一瞬の映像、恐らく10秒にも満たない、彼を見つめるすみっコの姿に、自分の大好きなものを見つめる自分を重ねてしまって、それに更に彼らを重ねてしまって、瞬間的に私はだめになってしまった。

 


物語は、これで終わらない。
どうしても想いを寄せてやまない物語の続きを書いたことはないだろうか。想像したことは。彼らのことを、紙の切れ端や文字で書き起こしたことは。

 


すみっコが集まって、絵本に何かを描いた。


本に描かれたものは、灰色のひよこは勿論、なによりもすみっコ達の心を寂しくないものへと導いた。
集団幻覚かもしれない。でも、これは紛れもなく彼らにとって、確かにあったことだった。
すみっコぐらしという映画の中での出来事だから、ひよこも間違いなくその世界に存在している。だからそれが、本当のこと だと分かる。


エンドロールについて。灰色のひよこの元に寄り添うものたち。ひよこが旅したものたちとは違う、でもひよこの大切な友達になったことには違いなかった。
なによりほら、あんなに個性を受け継いでいたら、彼らでなくても、彼らと変わらないと思う。

 

 

 


自分の話になる。
前職で何かがギリギリだった時、出来るだけ駅のホームで、ホーム端を歩かないように意図して足を踏み出さないといけなかった頃、私を支えてくれていたのは、家族と、大好きなキャラクターだった。
実際に話しかけて貰えている訳ではない。ゲームでは確かにこちらに話しかけてきてくれてはいるけど。彼らが意思をもって、私を救ってくれている訳でもない。
でも、確かな意思なんか無くとも、画面や紙に彼がいるだけで、彼の格好良さや美しさに見惚れることで、辛く苦しい明日のことを一瞬でも意識から追い出すことができた。小さな画面の中に流れてくる二次創作を目にするだけで、確かに私は救われていたのだ。


 家族と彼を支えに、なんとか持ち堪えて、区切りの良い時に会社を辞めた。大切にしていた、どうしても苦しい時に胸にかかえて眠ることもあった模造刀を、折角だからと大事な式に持ち込んだ。今までなら安全牌をとって、つまらない仕事をしていたところを、少し安定しない、でもやってみたかった、ちょっとだけ大好きなキャラクターの匂いがする仕事に就いた。昔から好きだった文章の塊を、もう一度、書けるようになった。


私は平面上のキャラクターに、胸をときめかせ、心を踊らせ、支えられて守られてきた。


好きなことが心の支えという言葉はよく耳にする。恐らくこれと、同じ経験をしたことがある人は、いると思う。
芸能やスポーツ、本や手芸。趣味は人生を豊かにし、時にはそっと支えてくれる。
その中で、アニメーションや漫画、いわゆる平面の上にあるものを愛する人
また特に、何かを書いたことがある人にとって、この映画は、自分たちを、自分の好きなモノ達を思い起こさせる物語であり、これからもずっとそうなのだろうと、予感させる作品だった。

映画という、動画と静止画の両方が存在できる媒体であることも、すみっコ達と、本の上の灰色のひよこの違いをハッキリと表現できる、素晴らしい手法だったと思う。


すみっコ達にとっては現実の出来事だった。私たちが今見ているものは、集団幻覚かもしれない。多分幻覚だ。でも、確かに私の中の大切なキャラクターはそこにいるし、どうか幸せになってほしいと願って、何かを書いている。


私たちが愛するものは現実の世界には存在しない。でも、確かにある。
机の上で、モニターの中で、私たちを支えてくれている。


私が書いた彼らも、私の及ばない平面の中で、少しでも幸せになってくれているのだろうか。


エンドロールの灰色のひよこを見ていると、想像だとしても、そこにいないとしても。私の大好きなキャラクターが幸せになってくれていると、少しだけ、確信することができたのだった。